ソウル
2016年11月3日、文化の日。
2年前の今日、愛車が納車された日、僕はある山奥の病院のベッドに横たわっていました。肺炎でした。
そして翌々日、16年11月5日。退院間際にナースステーションへの呼び出し。医師が放った重い一言。
たった数秒。その有様を、僕はまだここに表現することは出来ません。
手渡された封筒の宛先は、京大病院でした。
あれから2年が経とうとしています。
僕の人生は、このたった730日の間に、すっかり変わってしまいました。
良い方にも、そして悪い方にも。
2016年11月24日。初めての京大病院。
肺のすぐ近く、縦隔の陰は、やはり癌でした。
縦隔原発胚細胞腫瘍。
極めて珍しいものでした。
100万人に、1人。
それからの日々、入院までの14日間、僕は沢山の人に会い、そして沢山の情報を漁りました。前者は僕を勇気付け、後者は僕を戦慄させました。
しかし、夥しい情報の黒い海にも、いくつか道しるべとなる光のようなものが存在していました。
同じ胚細胞腫瘍に冒されながらも精一杯生き抜く人々のSNSや闘病記です。
そこには力強い言葉がありました。
浅野大義(たいぎ)君も、その一人です。
彼は2歳年上でした。僕は、自分と同じ胚細胞腫瘍と闘いながらも笑って生きる彼に心を打たれ、それからの日々、彼のTwitterを追いかけました。
彼は11月3日に、既に退院していました。その前日にはTwitterに「これからはキュウリ以外の野菜は食べます」なんてふざけて呟いていました。もう癌を克服していたのです。
この人のように生きたい、同じ癌で、転移までして、それでも強く生きる彼のように自分自身も力強くありたい。
そう思いながら、来たるべき入院を待ちました。
そして12月8日。僕は入院しました。
病室から初雪を眺めながら、これが最後になるかもしれない、とにかく闘うしかない、と思いました。
ところが。同じく12月、浅野大義君も入院しました。
再々発でした。骨髄と肺への転移。
医師は「これが最後の入院になります」と言ったそうです。
それでも彼は強くあり続けました。高校時代、吹奏楽部に所属していた彼は、その月に行われた後輩達の定期演奏会を観に行ったそうです。これが最後になる、と感じながら。車椅子で、片目片耳の機能しないまま。
市立船橋高校と言えば、イチフナの愛称で知られ、特にサッカー、バスケ、バレー、陸上、そして吹奏楽は全国大会常連校としてその名を轟かせています。吹奏楽部に至っては1日10時間部活することもあるとかで。
浅野大義君はそんな強豪吹奏楽部の中でもリーダー的存在で、作曲も手がけるほどでした。彼が高校3年次に作曲した「市船ソウル」は、野球部の応援歌の大一番のチャンステーマとして、そして強豪サッカー部の応援ソングとして、昨今有名になりました。
どうして有名になったのか。
そこにはあるストーリーがありました。
音楽と出会い、音楽を愛し、そして癌になった一人の青年の物語。
僕が入院して1ヶ月経ち、年が明けました。
2017年1月12日。東京で初雪が降りました。交通網は少し乱れました。
そんな日の夕刻。
彼のベッドの周りには、3人の家族が膝を突き合わせていました。彼は昏睡状態でした。
その日は満月でした。
浅野大義君は、静かにこの世を去りました。
ハタチ。
彼の告別式は、その1週間後に行われました。式場が混んでいたようで、遅れてしまったそうです。しかし、その1週間が「奇跡の告別式」を作り上げることに繋がりました。
以下、朝日新聞デジタルより。
「告別式で大義のために演奏しよう」
言い出したのは、先生だった。大義さんと同じ世代で部長だった河上優奈さん(21)が連絡を回し、演奏できる元部員を集めた。
式の2日前、100人以上が母校に集まった。静まりかえった夜の校舎で、優奈さんが言った。「最高のかたちで大義を送りだしたい」。初めて顔を見る先輩と後輩が音を合わせた。練習を終えて全員が学校を出たとき、日付は変わっていた。
告別式の日。楽器を持った喪服姿の人が葬祭場に次々とやってきた。店に頼みこんで休みをもらった美容師。1歳の子を親に預けてきたママ。演奏者は164人になった。
祭壇には、大義さんの遺影と愛用のトロンボーン。白いひつぎを囲んで楽器を構える教え子たちに、先生がタクトを振った。
魔女の宅急便、夜明け、手紙……。昔みんなで練習した思い出の曲を奏でていった。
最後は、あの応援曲。「大義が作った曲だ。いくぞー」。先生が言った。
明るいメロディーが葬祭場に響く。トランペットを吹く女性のほおを、涙が伝う。
タイギ、タイギ、タイギ――。
選手の名前のコールも、この日だけは作曲者に送られた。
会場には母校がつくった横断幕が掲げられた。
- 朝日新聞デジタル 2017年4月2日
ハタチの、ソウル。
2018年の夏。彼の生き様は一冊の本になりました。
「俺の音楽は生き続ける」。
彼の作った曲「市船ソウル」だけは生き続け、今年も球場を沸かせています。
自分と同じ縦隔胚細胞腫瘍に侵され、亡くなった一人の青年の、心温まる物語。いくつも上の先輩から見知らぬ後輩まで164人、1日だけのブラスバンドが、彼の告別式で彼だけのために演奏した市船ソウル。
もし興味があれば、ご一読を。
最後に、報道ステーションでの特集を貼っておきます。