或る闘病記

生きるって楽しい。

Quality, Quantity

 

 カレーを食べていたら電話が鳴った。小学生の頃だった。相手は父だった。受話器を取った母は声がだんだん細くなり、しばらくして力なく受話器を戻した。祖父が死んだ。

 

 身内が亡くなるのは初めてのことだった。「死」に初めて遭遇した。人は死ぬ、という現実を初めて突きつけられた。

 

 伴侶を亡くした祖母は、叔母と二人で暮らすようになった。元気に生きていたけれど、でも今思えばどこか寂しそうだった。

 

 大学受験を半年後に控えた夏、祖母が京大病院に入院した。病棟は、まだこんなに綺麗じゃなかった。祖母はいつも笑っていた。お見舞いに行くと、こっちが逆に元気をもらうくらい有り余っていた。毎日でも行くべきだった。

 

 祖母の癌は治らなかった。地元の病院に転院して、ホスピスに入った。最期の1ヶ月は好きなものを食べていた。訃報が届いたのはセンター試験の2ヶ月前だった。それが二度目の「死」との遭遇であった。あれから1年と5ヶ月が過ぎた。

 

 

 

 先日、叔母が祖父母とお見舞いにきた。祖父母は写真の中で寄り添って笑っていた。祖母にとっては久しぶりの京大病院だったはずだ。ばあちゃん、病棟も綺麗になったでしょ、ずいぶん快適だよ、と心の中で呟いておいた。祖母は変わらず笑っていた。

 

 

 叔母から、祖母の形見をもらった。手につけてみると、思ったよりもサイズが大きかった。太りすぎだろ、足につけてたのかな、なんて思ってちょっと笑った。

 

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 1週間前、曾祖母が亡くなったという知らせが入った。109歳だったそうだ。大往生である。入院していて葬儀には行けなかったけれど、四十九日には行くつもりだ。90も歳が離れていたのか。そういえば、白寿のときにお祝いをした。あのときは祖父も祖母も元気だった。一家総出で宴を開いた。あれから10年経った。

 

 

 若い、という理由で他の患者さんから声をかけられることが多くなった。みんな口を揃えて「若いのに」という。辟易するわけではないけれど、どうもしっくりこない。若い人の病が、そして死が、みんな一様に不幸だというのか?長寿はいいことだけれど、別に僕自身は長生きしようと思わない。自分の人生を幸せに全うできれば、それが109歳であろうと19歳であろうとどうだっていい。僕は今幸せだから今死んだって構わないと思っている。

 

 

 僕は祖母がホスピスに入ったとき、もう癌と闘うことを諦めたんだと思っていた。でも今となっては、そうじゃなかったんだと分かる。彼女は幸せなまま死んだ。好きな食べ物と、好きな人達と、好きな地元の景色に囲まれて死んだ。そういう死に方ができれば、僕はそれでいい。長生きするに越したことはないけれど、長寿至上主義はやめにしないか。

 

 

 僕は今、もう死ねるくらい幸せだと思う。そしてその幸せがゆえに、まだ生きたい。いつ死んだっていいし、もっと生きたい。相反するように見えて、両者は互いに入り組んでいる。そこに葛藤するときもあるけれど、千羽鶴と一冊のメッセージノートが助けてくれる。

 

 明日、手術の結果が告げられる。それが良かれ悪かれ、僕はもう微動だにしない。祖母の形見を付けて、診察室に入ることにしよう。