或る闘病記

生きるって楽しい。

ストレート・ライン

 

 一直線に走りなさい、と教えられてきた。

 真っ直ぐに歩きなさい、と手ほどきされてきた。

 

 教えられた気になっていただけかもしれないけれど、それが美徳だった。歩んできた道に穢れの一点さえも残さないことこそが美しい生き方だと思っていた。蛇行は許されない。最短距離かつ最速。これが好きだった。

 

 確かに山があり、そして谷もあった。しかしそこには必ず道があった。橋がありトンネルがあった。目抜き通りであれ獣道であれ、足は定められた方向にしか進まなかった。

 

 寄り道は時間の無駄だと感じていた。遠回りはエネルギーの無駄だと思っていた。道を外れることなど言語道断だった。

 

 ところが、山道を一直線に走りながら遥か未来ばかりを見つめていたら滑落した。あっ、と身構えたときにはもう遅かった。まさかそんな災難が自分に降りかかるとは思うよしもなかった。「あなたは助からないかもしれない」、そう告げられた。はじめて道を外れた。五里霧中だった。

 

 

 ストレート・ライン。

「あなたはいつも走ってきた。走りすぎたのかしら。」あの先生はそう言った。「これは少し休みなさいというサイン」。

 

 

 滑落したときは絶望した。描いていた道から外れたということ、もう元には戻れないかもしれないということ、その不安が頭の中を埋め尽くした。酸素の供給が断ち切られた気がした。

 

 癌。

 

 今生きるという行為は未来の為の投資だと思っていた。道を外れることは未来を壊滅させるに等しかった。

 

 

 そんなとき、寄り道こそが人生なんだ、と教えてくれた大人がいた。何人もいた。

 

 それぞれ、切り口は全く違った。会社員や青年海外協力隊を経て教師になられた恩師。もう時効だからと言って大学で驚くほど留年した話をしてくれた小学校の先生と大学の教授。人生を達観したような顔つきの元学年主任。塾の先生。そして1浪1留を今になって打ち明けた親父。

 

 地道に生きよう。そう強く思った。駆け足もいいけれど、何か美しい景色を見逃してしまいそうな気がする。そうそう、「地道」はもともと馬術用語らしい。馬の乗り方のうち最も速いのが「駆け」、次に「のり」、そして最も遅い並み足が「地道」だそうだ。「駆け」では道端の一輪花に気づけないだろうし、寄り道もうまくできない。「地道」で歩を進める。

 

 

 以前別のブログの方にも書いたが、僕は人生を「自然の大いなる潮流」の一部だとする考え方が好きだ。生きるということは、流れに身を任せて蛇行することなんだと気付いた。ストレート・ラインなど描けるわけがないし、むしろ蛇行する人生の方が幾分面白いのだろう。

 

もがいてはいけない。

人生はもがいてはいけないと思う。

 

流れに呑まれた時、もがくと体力を消耗して溺れてしまうのは誰しもが知っているはずだ。海で溺れた時は服を脱いで仰向けになるのがいいですよ、なんてニュースでよくやっている。人生に溺れそうになったら、纏わりつくものを取っ払って空でも眺めていればいい、そうすれば何とでもなるのだろう。

 

 集中しすぎないのが真の集中だ、と僕が尊敬するアスリート兼哲学者の為末さんは講演会で言っていた。集中していることを自覚しているうちは集中していないのだそうだ。フローと呼ばれる超集中状態では、身体は非常にリラックスしているという。スポーツでも勉強でもそうだし、これは結局生きることにも通じる気がする。生きることに集中しているうちは生きられない。溺れないようにしようと思っていては溺れてしまう。ガチガチになっていては良いパフォーマンスは生まれないから。もし苦しくなったら、もがく前に裸一貫になって空でも眺めればいいんだ。晴れも雨も恵み。最近気付いたけれど、3日に1回くらいは虹が出る。

 

人生はもがいてはいけない。

惰性ではないけれど、流れに身を任せて。

エネルギーがあるなら逆行せず順行で泳げばいい。潮の流れは追い風に変わる。息を継ぐたびに空を見て、そしてたまには仰向けになる。仰向けになっても流れがあるから実は進んでいる。

 

未来のために生きるのではなく、今を生きる。

結局それがいちばんの近道だったりする。「必死に生きる」なんて言葉、"死"と"生"の文字が介在していて気持ち悪い。地道に生きればいい。何もないよりは集中した方がいいのだろうけど、僕はフローの境地に達したい。流されるがままに泳ぎ、自然と寄り道しながら、天気のいい日は仰向けになって空を見上げていたい。

 

ふと「ストレート」の単語を英和辞典で引いてみると、" Live straight " という熟語があった。訳が「地道に生きる」だと知った時、必ずしも直線だけがストレートではないのだ、と気付かされたのだった。