再び
退院祝いでケーキを買ってもらいました。美味しかったです。あと通学用に使ってた自転車も壊れちゃったので、退院祝い名目でロードバイクを買ってもらうことになりました。ベッドから起き上がるのも、腹筋に力が入らず始めは5分くらいかかっていたのが、やっと1分くらいで出来るようになりました。
そんな感じで、あぁやっと日常の生活が戻ってきたな、と実感しかけていた矢先、退院3日後にして病院に舞い戻ってきてしまいました。緊急再入院です。何かの縁かもしれません。というか、そう思わないと、もうやってられないです(笑)
実は退院した当日、その足で友達と遊びに行って、次の日も別の友達とカラオケ行って(肺活量なさすぎて驚くほど歌えへんかったけど)、浮かれて浮かれて、帰宅したら39度の熱が出ていました。ただの馬鹿です。はしゃぎすぎ。
その日は歩けないくらいフラフラになりながら京大病院の救急外来に直行しました。全く世話のかかる奴ですね。
一応インフルエンザの検査をしましたが陰性でした。レントゲンを撮ってみると、どうやら胸に水が溜まっている、ということでした。インフルエンザじゃないことが分かったので帰れと言われました。いや泊めてくれよ...。さすが日本屈指の総合病院、その程度では泊めてくれません。
翌日起きると熱はすっかり下がっていましたが、流石にその日はベッドでゴロゴロして過ごしました。そして今日、もう一度来いと言われていたので京大病院の外来診療に来たわけです。ほぼ手ぶらで。
採血と、レントゲンを撮ってから、診察してもらいました。そこで色々結果を見せられたあとに、再入院ですね、と言われて流石に面食らいました。は?って感じです。別に今そんなにしんどくもないのに入院せなあかんの⁇ いやそれやったら最初から泊めとかんかい!!!!!!!
と言いたくなりましたが、自業自得かもしれませんね。おとなしく頷いておきました。
あぁ友達との約束も全てキャンセルですよ(笑) 本当にごめんなさい...。
ということで、胸水を抜くことになりました。またドレーンと呼ばれる管を付けることになります。前回は、手術後の全身麻酔中に管を挿入されたので痛くも痒くもなかったのですが、今回は、もう、察してください(笑)19年生きてきて、いっっっっちばん痛かったです。
左の脇腹の上の方にメスを入れられたあと、そこから直径15mmの太いチューブを肺の側方のやや上気味あたり、身体の奥深くに向かって10cmほどぐいぐいねじ込んでいくんですよ。思わず「あああああああああ!!!!」って何度も叫びました。痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!!次元が違うわ!!銃弾がゆっくりと貫通するような感覚でした。撃たれたことないけど。結局、30分くらいかかってようやく胸膜をぶち破りました。この瞬間が強烈に痛かったです。痛すぎて耳鳴りがしました。ドレーンは全身麻酔で入れるもんや、局所麻酔でやるもんやないよホンマに。
管が刺さってる所の写真も載せようかなと思ったんですが、流石に痛々しいしグロテスクなのでやめておきますね。
管を入れると2時間ほどでこれくらい胸水が出てきました。そりゃ肺も圧迫されるし熱とか咳も出るよね。
それにしても何だか一筋縄ではいかないみたいですね。大学の新学期にも間に合いそうにないです。ヘルプミー。
何かこう上手くいかないときは人のせいにしたくなるものですよ。僕はそんなに人間が出来てないので、すぐ原因を外に探してしまいます。今回入院したのは「一回も病院行けへんかったんだけが心残りや!すまん!!出来れば2,3日くらいまた入院してくれ!!」とか冗談抜かしてたあいつのせいですね、きっと(笑)
あいつには地を這ってでもお見舞いに来させます。
(にしても俺そんなに日頃の行い悪いんやろか...。)
(´・ω・).。oO
始まり
入院患者用のリストバンドを切ってもらった。久々に右腕に軽さが戻った気がした。
長かった。数年間に思えた。今日、ようやくこの病院を去ることかできる。重い荷物をカートに乗せ、お世話になった医師と看護師さんと、それから親身にしていただいた他の患者さんのもとへ挨拶にまわって、病棟を後にした。
癌を宣告されて130日が過ぎようとしていた。その間、何百人という人に支えられた。お見舞いにも、百人近い人に来ていただいた。独りだったら、今頃どうなっていたか分からない。この19年間で、僕は本当に数多くの素晴らしい人々と出会ってきたんだな、と確かめるように頷いた。過去の自分に感謝しなければ。
手術の結果は4月10日に分かる。今は病理検査の結果待ちで、そのあと泌尿器科のカンファレンスで結果について話し合われる。もし摘出した腫瘍に悪性成分が残っていれば、再度入院となり、抗がん剤を打ち直す。そうならないことを祈るばかりだ。
久々に家に帰ると、懐かしい匂いがした。ソファーになだれ込むように寝転がった。家だ。
起き上がろうとすると、力が全く入らず起き上がれなかった。何とか手を使って体を起こして、自分の部屋に駆け上がろうとしたら、10段ちょっとの階段で息が切れた。俺も弱くなったもんだな、と苦笑いした。家で無意識のうちに10年以上続けてきた行為が、もはやできなくなっていた。
それでも、今日から新しい生活が始まるという事実に変わりはない。母の作るご飯を噛み締めてゆっくりと味わいながら、自分が恵まれていることを実感する。傷が少し疼くたびに、生きていることを実感する。痛いくらいがちょうどいい。
慌ただしく過ぎていた時間が、またゆったりと流れ始めた。
ただいま。
気分上々⤴︎⤴︎
最近真面目な投稿が多いので、今日はネジを何本か緩めます。リラックスして読んでね。
今日は嬉しいことがありました。
ついに身体についていた管という管が全て抜けたんです! 身軽じゃあ〜 (。-∀-)
管が抜けたということはついにシャワーを浴びれるということです!気持ち良かったぁ。
今まではどうしていたのかって?
流石に動けなかった時は看護師さんに拭いてもらってました。あんまり変なこと想像しないでください。ちなみに看護師さんは9割以上女性ですし、だいたい若いし、だいたい可愛いです。半分くらい20代です。マスクを着けているので、胸元の名札の顔写真の5割増しで可愛く見えます。ちなみに若い人が多い理由は、ベテランになると病棟から外来や手術部などに飛ばされるからです。へー。あと病棟が暖かいので、制服は年中半袖です。
傷跡は、もうほとんど痛くありません。ベッドに寝転がる時にはまだ激痛が走りますが、それくらいです。大したことありません(ある)。
ちなみに傷跡は今こんな感じです。
運動しないので太ってきました... (嫌味でも自慢でもありません、本当に本当に。)
研修医がレントゲンを見て、「入院当初と比べて胸筋だいぶ小さくなったねぇ」とか言われて泣きそうになってました。
いや、全盛期はこれくらいあったんですよ。ちなみにこれはただの自慢です。
ただテレビで晒したのは今でも黒歴史です。正月のお茶の間に見苦しいものを見せてしまった、と当時結構後悔してました。あと「悩みはモテないこと!山口くん」のテロップ流石に笑えへんからやめろや。
あんまり夜のテンションで書くと痛々しいこと書いてしまいそうなんでこの辺でやめときます。病院食の話でもします。
病院の食事は、全体的に言うと、おいしいとは口が裂けてもいえません。でも点数の低い食事が多いぶん、たまに来るおいしい食事の偏差値がぐっとあがります。「そこそこおいしい」くらいのメニューが、日々の病気の疲れも相まって「ミシュラン3つ星★★★」くらいになります。それでは3つ星メニューを発表しましょう。夜分に飯テロすみません。
ま、割と美味しそうに撮ってるので美味しそうですよね。正月におせちやお雑煮が出たり、クリスマスにロールケーキが出たりします。入院したての頃は、献立を見に行って、いいメニューだとテンションup⤴︎⤴︎、嫌いなメニューだと若干萎えてました。小学生かよ。
ちなみに嫌いなメニューが出たときは下のメニューの好きなやつに変えてくれたりするんですよ〜。至れり尽くせり。
と、今日は久々に外気を吸ったので割とテンション高めの投稿でした。おやすみなさい。
リハビリ
ひとつ大事なことを言うのを忘れていました。
僕は今回の手術で何ひとつ失っていない、ということです。
もともと、左肺の上葉と腕頭静脈、それに左横隔神経を切除する予定でした。しかし開胸してみてから、医師らが判断した結果、腫瘍切除の際に左肺上葉および腕頭静脈の切除は必要ない、という決定になったそうです。そして横隔神経は、一度切除しましたが、別の神経で繋ぎ合わせたので、なんと数週間すると繋がって信号が行くようになるんです。輸血もされていない。それから切られた筋肉も骨も、数ヶ月で繋がってきます。抜糸すれば、ほら、元どおり。傷跡だけ。人間の身体ってすごくない⁇
それにしても、手術中のその場でこんな判断ができる医師ってやっぱりすごいなぁ。ただ腫瘍を取ればいいとかではなくて、患者の術後を最大限に考慮してくれたんです。もう雲の上の存在です。かっこいい。あと2年早かったら僕は間違いなく医学部を志望していました。あんな医師になりたかった。
ところで、自分の肺機能ですが、こちらは格段に落ちてしまっていました。肺活量は今日は最高で1000mLでした(成人男性の平均は3000〜4000mL)。昨日なんか500mLでした。左の横隔神経がまだ繋がってないんですね。呼吸が浅い。
そう、昨日からリハビリが始まったんです。朝食後すぐに、南病棟の地下の非常に綺麗で大きなリハビリテーションルームでやっています。若い人は見当たりません。
車椅子で連れていってもらったあと、まずは理学療法士さんに体をほぐしてもらいます。僕の場合、胸骨正中切開とTMA、さらに3-4肋間開胸と呼ばれる、3種類の開胸方法を取っているので、特に大胸筋がズタズタです。
この左側の大胸筋をしっかり動かさないと、傷が筋肉と癒着して手が上がらなくなるよ、と言われました。おそろしい。ちゃんとリハビリします。今日は手をバンザイする練習をしました。両手を組んだまま上げると、真上まで全く届かず驚きました。全然動かない。
体ほぐしのあと、昨日は歩行訓練をしましたが、今日はエアロバイクを漕がせてくれました。でも、始めるや否や、かなり低負荷でやっていたのにもかかわらず脈拍がどんどん上がっていきました。平常時は99%ほどあるサチュレーション(経皮的動脈血酸素飽和度 [SpO2])も90%くらいまで落ちてしまいました。要は酸欠です。やっぱりダメか...。
漕ぎながら、ふと、高校の陸上部を思い出しました。あの頃は、みんなで声を張り上げながら、汗を流して回転数を極限まで上げて、エアロバイクを必死に漕いでいたんです。昨日のことのよう。僕の眼前には、夏の日のグランドが広がっていました。あれは輝いていて楽しかったな、なんてひとりで思っていました。それからふと今エアロバイクのハンドルを握る自分の手を見ると、太い点滴の針が刺さっていて、目の前には身体に繋がれた管が何本もあって、何だかもう情けなくなって、涙が溢れて止まりませんでした。こんなところで何やってんだろう俺。目を閉じてひたすら漕ぎ続けました。悔しかった。
リハビリルームから帰るときに、同じ階に入院しているおじいさんも一緒でした。僕は車椅子、おじいさんは自力で歩いていたので、彼が看護師さんの代わりに僕の車椅子を押してくれました。これもリハビリじゃわ、とか言ってくれました。僕はただ押されるだけで、ありがとうございます、すごいなぁ、と思っていたのですが、だんだん自分がみすぼらしくなってきました。おじいさんが息を切らしながら車椅子を押してくれているのを見て、本当は立場逆だよなぁ、と思っていました。病室まで送ってくれると、彼は「頑張れよ!」と言って自分の病室に帰っていきました。何やってんだ俺。あの歳でもあれだけ必死になって生きてるんだ。俺ももっと頑張らないと。
俺自身は何ひとつ失っていないんだから、時間はかかったとしても、元に戻るはずです。だから諦めてはいけない。
あの夏の日に、きっと近づける。いつか、必ず。
頑張ろう。
手術とその後
手術室に入ると、ドラマで見るようなメスや機器が丁寧に揃えられていて、麻酔科医の方々が何人かいました。
手術台に横になったあと、タオルをかけられてから病衣を脱ぎ、それから心電図やパルスオキシメーターが取り付けられました。そして酸素マスクを被され、点滴の針も入れられました。
「今から予備のお薬を投入します。その後に眠くなるお薬が入りますね。」と言われ、じっとしていると、すぐにふわふわした気分になってきました。
左手から、順に半身ずつ薬が回ってくる感覚がして、「よろしくお願いします」と麻酔科医の先生に言った直後、意識が飛びました。
「朝ですよ、分かりますか?」
目が覚めたのは、手術翌日の集中治療室(ICU)でした。
実は手術後に一度起きていたそうですが、記憶にないので残念です。手術後は、人工呼吸の方が安定するので、再び寝かされたそうです。
結局、手術にはかなりの医師が立ち会ってくれたそうです。呼吸器外科の主治医、呼吸器外科の教授、呼吸器外科の担当医、呼吸器外科の研修医、そして泌尿器科の主治医... すごい。錚々たる顔ぶれ。ありがとうございました。
その後のICUでは、まだ麻酔が効いていて痛みはなかったのですが、シバリングが止まりませんでした。
シバリングというのは、文字通り全身が震えることです。手術によってセットポイント(体温の通常値)が上昇し、そのために身体が寒いと判断して、平熱なのに、さらに熱を上げようとして全身を身震いさせます。これがシバリングで、実際、僕の体温は38.5℃まであがりました。
シバリングは、筋肉の運動によって酸素消費量が増えたり、交感神経の刺激に伴い血圧や脈拍が上昇したりするので、術後の患者にとっては少々危険なもののようです。
しばらくするとこれは収まったので、身体を拭いてもらってから、ICUを後にしました。
病室にもどって数時間は痛みも全くなかったので、「俺強すぎやろ!余裕やんけ!」とか思ってましたが、しばらくして麻酔の余韻がなくなると、もう強烈な痛みに襲われました。それこそ、もう息ができないレベルの痛みでした。夜も一睡もできませんでした。
息が苦しくなると、全身に力が入って硬直するので、余計息苦しくなります。そこでイヤホンで音楽を聴いてリラックスすることにしました。するとこれが功を奏して、かなり余裕を持って呼吸することができました。僕がスマホの容量の大部分を費やして楽曲を何百曲も入れていたのは、そうかこの日のためだったんだな、と勝手に思いこみました。
今日は明け方頃から痛みもほとんどなくなり、随分と動けるようになりました。昨日は無理やり歩く練習をさせられて(エコノミークラス症候群防止のため)、10mほど歩いたのですが、たったそれだけで脈拍が150くらいまで上がってぶっ倒れそうになっていました。でも、今日はかなり普通に歩けました。といっても、田舎によくいる腰の曲がったおばあちゃん並みのスピードですが。
速く歩けないのは仕方ないですよ。これだけ管がついてるんですから。
4つのカラフルな色のついた線が心電図、透明な細い管が硬膜外麻酔、太もも付近から出て床を這っている透明の太い管がドレーン、手首と手の甲に付いているのが点滴(2本)です。ほら、これだけついていたら最高時速は1kmでないでしょ。
硬膜外麻酔は前回のブログに書いたとおりです。ドレーンというのは、文字通り吸引装置で、手術で切った部分から出てきた胸水や空気、血漿を体内から吸い出してくれています。
これが吸引装置。
赤いのは血ですね。
ちなみに、手術跡はこれです。
痛そうでしょ?昨日はもうめちゃくちゃ痛かったです。喋れなかった。痛み止めを飲んでも食事ができなかった。もう今は、自由に会話できるし、何でも食べられるので、当たり前のことだけれども、本当にありがたいな、と思います。
今日は友人が何人か来てくれました。どうせすることもないので、話し相手がいると心強いです。久々に会う友達も多くて、やっぱりなんだかんだ縁って大事やなぁと思います。今日会った友人の1人は、小学校の同級生で、中高は別ですが、大学は今年から同じになりました。なんかそういうのいいよね笑
多くの人とのこんなちょっとした縁が、いつまでもいつまでも続きますように。
手術前日
宝物に気づきました。
意外とすぐ近くにありました。
たくさんありました。
僕は本当に幸せでした。
人に恵まれていました。
応援のメッセージを送ってくれて。
会いにきてくれて、他愛もない話をして。
本当にあの頃と変わらない。
人の縁は、そんなに簡単に切れないんです。
いい宝物を授かったなぁ。
やっぱり、死にたくないや。
目の前に、こんなにも愛すべき世界が広がっているというのに。
5年生存率が40%であると告げられたあの日。
あぁ死ぬんだ、と本気で思いました。
学校に行ったり、友人と遊んだり、
そんな当たり前のような生活はもうできない、
僕はこの世を去るんだ。
涙が溢れて溢れて止まらなかった。
悔しかった。
本当に悔しかった。
でもさ、
崩れ落ちた自分に手を差し伸べてくれる人がいて。
倒れないようにと支えてくれる人がいて。
前を向けるように背中を押してくれる人がいて。
僕はあなた方がいなければここまでこれなかったんです。
頑張れ、負けるな、
そんな一声に何度救われたことか。
ありがとう。
本当に、本当に、ありがとう。
どこからともなく、追い風が吹いているような気がして、
多分それは、僕が恵まれているからなんです。
癌になって、全てが変わりました。
変わったと思っていました。
でも違いました。
変わったのは、自分の身体のごく一部だけでした。
家族も、友人も、先輩も後輩も、先生も、何も変わらなかった。
みんないつも通り接してくれました。
僕は患者である前に1人の人間でした。
大学を卒業する前に死ぬと思っていて、もう社会には出られないと思っていて、大学に通う意味さえ分からなくなっていたけれど、
結局前期より後期の方が成績が良かった。
今を全力で生きようと思ったんです。
患者としてではなくて、1人の人間として生きようと思ったんです。
患者であることを忘れさせてくれた人がたくさんいたんです。
そのおかげで、今僕はここにいます。
あなたもわたしも、いずれ死にます。
命は有限です。
だからこそ、いちはやくそれに気づくことが重要なんです。
僕は、あの時風邪をうつされなかったら、今頃進行の進んだ癌の餌食となって死んでいました。
だから今こうして生きているのが、途轍もなく不思議で、この上なく嬉しくて、言葉にできないほど素晴らしく感じて。
けれども、僕は癌を決して悪者扱いしようとは思いません。
むしろ逆です。
僕は癌という病気に、この世界の美しさを教えてもらいました。
空が青かったり、パンが美味しかったり、朝気持ちよく起きられたり、
癌という病気は、そんな些細なことで心が満たされるほど幸せになれるようにしてくれたんです。
生きている今この瞬間がどれほど掛け替えのないものなのかを伝えてくれたんです。
そして明日、本当に何事もなく手術を迎えることが出来ました。
だからこそ、こう言えるんです。
ありがとう。
がんになって良かった。
2日前
生を必する者は死し、死を必する者は生く。
ー 上杉謙信
手術まであと2日になりました。
正確に言うと、48時間後には手術は終わっている予定です。
先日、血液検査と、PET検査、レントゲン、心電図、それから血管のエコー検査を行いました。全て問題なかったです。
手術室への入室時刻は3月21日の午前9時になりました。手術室までストレッチャーで寝たまま運ばれるのかな?と思ったあなたは医療ドラマの見過ぎです。実際は病室から手術室まで5分くらい歩いていった後に自力で手術台によじ登ります。なんとも味気ない。
入室後すぐ、本人確認をされ、それから様々な機器が取り付けられます。
そして酸素マスクが取り付けられ(このタイミングがいわゆる「麻酔開始」)、酸素を吸入して呼吸が安定してくるまで待ちます。それから今度は点滴で静脈に麻酔薬を投与されます。投与開始5秒ほどで意識が吹っ飛びます。あ、意識が. . . と思ったらもう手術が終わっているそうですね。ちょっと楽しみ。
麻酔薬を投与された後は、同じく点滴で筋弛緩薬を投与されます。これで身体のすべての筋肉の動きが停止します。生きた屍ですね。心臓も筋肉の塊やし止まっちゃうんじゃないの?と思ったあなたは医療ドラマの見なさ過ぎです。筋弛緩薬を投与しても鼓動は止まりませんよ。
筋弛緩薬は神経伝達物質アセチルコリンを阻害する働きがありますが、心臓は自動能を有するので神経を介して動かされている普通の筋肉とは異なる. . . んですよね。へぇ。
しかし横隔膜が動かないと呼吸が出来ません。そこで人工呼吸に移行します。酸素マスクを通した人工呼吸により呼吸が安定したのを麻酔科医が確認したら、次は気管挿管です。口から気管内チューブを挿入して気道確保を行います。
それから、実は局所麻酔も併用します。硬膜外麻酔と呼ばれるものです。
これは、手術で生じた痛みが神経の中枢である脊髄に伝わらないようにするための局所麻酔で、背骨の凹凸の隙間からカテーテルを入れて注射します。一般的には手術の前日に挿管されるそうで、明日の午後、一旦手術室に入る予定です。
そして全ての準備が整ったら、手術が始まります。メスを入れた瞬間が「手術開始」。10時前くらいかな。術式は前回のブログに書いたとおりです。
手術予定時間は7〜8時間だそうです。終わるのは17、18時前後ってところでしょう。麻酔から覚めたら完全に夜ですね。朝寝て気がついたら夜、まさに長期休暇中の平均的な大学生ですね。
ところで、どんな手術室だろうかと思って調べてみました。
!!!!
すごい . . . 何やこれ . . .
こんな最先端の医療を提供してもらうの、一周回って恐れ多いわ . . . もっとボロいやつでええのに . . .
さて、手術の後は、意識が戻ったら集中治療室(ICU)に入ります。ここで一泊。こちらでも追い打ちをかけるように日本最先端の高度医療が楽しめますよ。多分痛すぎてそんな余裕ないでしょうけど。16床に対して配属看護師50名以上。24時間の集中監視体制。何とまぁ恐れ多いこと。手術室の床にそのまま布団敷いて寝かしてくれたらいいのに。いやでもこんな経験出来ないでしょ。折角やし痛くなくてもナースコール押しとこ。
今日ICUの看護師さんが来て、色々と説明してくれました。テレビとかに出てくるような物々しい雰囲気のところやし、バイタルの異常をお知らせする機械音とか鳴りっぱなしで緊張する患者さんも多いんやけど、大丈夫?みたいなこと聞かれたので、「めちゃくちゃ楽しみです!」とだけ言っておきました。正直、不謹慎やけどすごいワクワクする。天下の京大病院のICUやで...。主治医からICUの方に申請しておきましたと言われたとき嬉しくて飛び上がりそうになったのは内緒。
それから手術を前にして医療ドラマにはまりました。コード・ブルーです。ガッキー可愛い。今日も一話分見てから寝ます。消灯後に起きてモゾモゾと携帯触ってると他の患者さんの迷惑になりそうですが、流石にこれですよ。
4人部屋に1人。家の自分の部屋より広いやんけ!日頃の行い良すぎるやろ!!何やこれ!!!
パーティー開けるよね。誰か明日来る?
あ〜 そわそわする。
怖いかって?むしろ逆。
修学旅行の前々日みたいな感じです。
変に興奮して文章がまとまりません。駄文が多いな。
それにしても外科医ってすごいよね。
おやすみなさい。